昭和四十五年七月十三日 朝の御理解


御理解第十三節 「神は向こう倍力の徳を授ける」


 「神は向こう倍力のおかげを授ける」とは云うてはおられませんね。徳を授ける、一生懸命神様に向こうて行く信心、そういう信心でなからにゃ、神様に向こうて行く信心。ですから、おかげ向こうて信心しても徳は受けられない事が分かります。何と云うても信心によって徳を受けるという事ですから、人間の幸せ、幸せ以上の幸せでしょうね。そういう大変なおかげを頂く道を教えて下さる。ですから、ここんところをお互いに本気で目さまさしてもらわねばなりません。
 「神が向こう倍力の徳を授ける」神に向かうという事、それはおかげに向かうというのではない。ですから、どんなに一生懸命おかげを頂く為に向こうても、おかげは受けられても、徳は受けられない。勿論、おかげに一生懸命向かいながら、そして、御神意を悟らしてもらい、神様の心を分からしてもろうて、神様の心に添う生き方をするという事でございますから、始めは誰だっておかげ向こうてであります。けれども、段々信心の何だろかという事を分からしてもろうて、徳を受けねばならんという事になってこなければならんですね。そこでどういうような生き方になったら徳を受ける事が出来るだろう。神様の願いにこたえて向かわしてもらう、神様の願いにこたえて立つ信心、そういう事がいえるんじゃないかと思うんですね。神様に打ち向かう、だからいくら一生懸命参っておるからお徳を受けるという事ではないという事。一生懸命に参っておる、しかもそんなら一生懸命修行をしてお参りをしておるという事ではない。その目指すところがですね、神様の願いにこたえて立つ、神様の願いにこたえての信心。そこで如何に神様の願いが分かっても、こちらにね、やはり力がなからねば神様の願いを受けて立つ事が出来ません。神様の願いを受けて立つ信心、ね、神様の願いをたとえて分かりやすく云うなら、神様のいわば手になり足になりにしての信心、ね。ま、云うなら親孝行の信心、「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」とおっしゃる。そうそう信心に迫力がついてくる。その向かい方、その迫力がです、百で向かう、千で向かうと云う事にもなりましょう。そこには 例えば、私共人間の事ですから大した事は出来んにいたしましても、そこん所は神様が倍力の徳を授けて下さる。人間の知恵、力ではどうにも出来ない程しの力を神様は授けて下さる、という訳ですね。
 おかげを頂いて、この度の東京行きの事でござますけれども、もう毎日毎日スケジュールでいっぱい、もう本当に晩は十二時より早く休んだ事がない位にいっぱいの毎日でございました。そういう中に昨日、昨日は最後に丁度、久保山稔さんが御承知の様にお店をしておりますが、丁度昨日はあちらの休みにもあたりましたから、一家中で休んで私共をあっちこっち案内して下さいました。それがその浅草の観音様という所がありますね、その観音様の御堂のすぐ裏に骨董屋さんがありまんす、有名な大きな骨董屋さんです。そこを見せて頂いておりましたら久保山さんが「先生、これは金光様の書ではないですか」と。勿論、値段が書いて下げてございます。見ると正しく金光様の見事な、それが他の骨董品と一緒にです、それこそ骨董品ですからゴミゴミした中に金光様のその書を発見しました時に、もう本当になんとも云えん実感でした。もう本当に信薄き人のしわざであろうけれども、なんという事であろうかと、一教の教主様が誰かに、やはりお書き下げを下さったものでしょう。それには『道は孤(こ)ならず』と書いてある。道というものは一人で出来るものでも開けるものでもないという意味でございましょうね。私はすぐ、それを買い取らせて頂く事にしました。そして、私は思いましたねえ。神様がね、やはりこういう拝ませて頂くようなもの、しかも金光教の他の者にとっては値打ちがないものかもしれませんけれども、けれども書としても大変な金光様は、大家でおありになりますから、書としてもやっぱり値打ちがありますところから、そういう高い金額でしたけれども、勿論一銭も値切る段じゃございませんでしたけれども、すぐそれを買い取らせて頂いて発送してもらうように依頼をして参りました。もし、私が東京に行かなかったら、いつまでこの書がそういうゴミゴミした骨董屋さんの店先にさらされる事であったろうかと、こう思います。いうならば神様がね、金光様がこれは私に頼んでござる。さあ、いかに頼んでござっても勿体ない事だな、こういう所に金光様のお書きになった額がここにあるというてもです、私がお金が無かったらね、それは買い取る事は出来ません。いわゆる金光様が「大坪総一郎頼む」と云うて下さってもです、本当に残念な事ですけれども、その金額を私がここに持ち合わせなんだら、結局、それを買い取る事は出来ません。ですから、どうでも私共が神様の願いに応えて立つという事は、願いに応えられるだけの力を受けなければならないという事が、皆さん分かりますでしょう。おそらくそれは、合楽教会のある限りです、合楽の宝として保存する事でしょう。そういう例えば、有り難いものを頂きますチャンスがそこに恵まれておりましても、私には力がなからなければそれを買い取らせて頂く事も、受けて立つ事も出来んのでございます。そこで、その力を頂く為の信心というものが、修行というものがなさらなければならん事が分かります。その力を受けるという時がです、やはりお互い、ただ今修行中といった時に力を受けるんだと思いますね。それはなる程、おかげを受けなければなりません。おかげを受けなければならないから一生懸命に御教えを拝聴致します、一生懸命に「ああでもなかろうか、こうでもなかろうか」と心にも練ってもみます。叉は、あれこれと自分で工夫を致しまして、とても普通では出来ないような修行も、いわゆる苦しいから出来る修行もあります。いうなら、倒れ転びの時、力を受ける。それをです、様々な生き方、信心の進み方はありますけれども、ここでは、そこのところの力を受ける事を、「自然との対決」という事を申しております。自然の働きとの対決。いうならば、自然の働きと私共の心でそれに向かわしてもらう力較べをいつもさせて頂いて、力を作っていこうという訳なのです。
 例えばですよ、分かりやすく云うと、そんなら、生神金光大神様を唱えさせて頂いて信心の稽古をさせて頂いておる。もうそれこそ腹が立って腹が立って仕様がない。そういう例えば事態が起きたと致しますか、「本当に腹の立つことじゃ」とそういう腹の立つ問題と対決する。その対決する時です、それこそここで腹を立てさせてもらわな、もうたまらんと、それをじっと例えばこらえる力、押さえる力、それを忍ばせて頂く力、生神金光大神、生神金光大神と唱えながら、自然のそういう腹の立つ問題、例えば、これは腹の立つ問題だけじゃないですよ。叉はそれは、誘惑といったような事でもよいかもしれません。とりわけ女の方達なんかは、デパートへ参りますとよいものが見えると、それが欲しい。特に例えば着物なら着物を見ると買いたい。そういうような場合でもです、そういうひとつの買いたいという誘惑と云うか、そういう例えば自然が私共にそういう事によって対決を求めて来る時です、買わんと、もし決めておったら、買わんと私はスッキリしていく事だと思う。食べんと決めたら食べない事だ。甘いものは食べんと決めたら、どんなに目の前においしそうなぜんざいが並べられておっても、ぼたもちがあってもです、それに手を出さないという事には、随分、力のいる事ですし、辛抱心がいる事です。それが、ゆだれが流れるように好きなものでありますならば・・・・・
 そういう所をです、本気でスッキリ修行させて頂く時には、それがものの見事に出来ていくものです。そういう力をです、様々な事からね、鍛うて養うていく私はそういう力をです、いよいよ養うていって力を頂いてその力をです、その力だけでおかげ頂くという事ではなくて、その力をもって神様の願いに応えて立つという信心。そうしてです、そういう私は頂いておる自分のいわゆる、貯えに貯えた力、鍛えに鍛えた力をもって、いよいよの時に神様のいわばお喜び頂ける事に、叉、神様の願いに応えてです、立たせて頂く力がもし百の力を持って向かわして頂かねばならないものには、百の力を持って向かわして頂いたその後には、もうそれこそ百五十も二百もの神様は力を授けて下さる。いわゆる倍力の徳を授けるとおっしゃるのは、そういう事ではないでしょうか。だから、一生懸命信心しよりゃ、一生懸命神様がお徳を下さるという事ではない。その辺の所がね、やはりお互いが御理解を頂いて、分からしてもらわなければならんというのは、そういう事だと思う。
 「神は向こう倍力の徳を授ける」そんなら一生懸命参りよりゃ、参るその迫力の倍の徳を神様は下さるという事ではない。神様へ向かう信心、おかげに向かうのではなくて、神様へ向かうていく信心。そこで、そんなら神様が頼む、願うと云われましてもです、頼む願われる前に私共が「どうぞ力を与えて下さい」という事になるのじゃないでしょうか。その力を頂かせて頂く為に、私共が信心させて頂く。だから、力を頂いただけじゃいけん。その力を持ってです、神様の願いに応えさせてもらえれる信心。そこで、それから先は、神の願いという事になってくる。神の願いを分からなければならないという事になるのです。
 もう一七、八年もなりましょうか。まだ私が椛目でおかげを頂いておる頃でした。体が悪くて私が休んでおりました。そしたら、お夢の中で大変な有り難いというか、勿体ないというかそれを頂いたもんですから、感泣して私が夢の中で声を上げて泣きよった。母が隣の部屋でしたからびっくりして「どうしたか、どうしたか」と云うてやって参りましたら、「ああ、お夢じゃった」という訳であります。余りに勿体ない事だものですから、「勿体ない、勿体ない」と云うて感泣しておるのでした。
 私が御本部参拝させて頂いておるところでした。三代金光様が御生存中ですからねえ。
 金光様が御結界を立たれました。「あら、どうしてお立ちになるだろうか」と思いよったら、お広前の方へ。「あら、お広前の方へどうしてお立ちになるだろうか」と思うたら、私のななめ一間ばかり手前の所にお座りになった。お座りになって、じっと私の方に向きをかえられて手をつかれてから頭を下げられた。もう、私はそれが勿体のうして、勿体のうしてたまらんもんじゃから、その「勿体ない、勿体ない」と云うて感極まって泣いておるお夢であった。
 何の為に金光様がわざわざお広前の方に下りてみえて、私の前に来て、私の方にわざわざ向きをかえて、私に頭を畳にすりつけるようにして願われるか、頼まれるか、その事がです、今でも同じ事。私は金光様に頼まれておる、私は金光様に願われておる。その願いにお応えさせて頂くという事が、私が生涯かけての信心であらなければならないという事をです、これは今でも、やはり願い続け、思い続けておるという事であります。
 当時、私が教師の資格を持ちませんでした。一信者として、だからこうしてお取次なんかは出来ない。けれども、私の話を聞いて人がどんどん助かって下さるという時代。まあ、随分といろいろ問題がありました中にも。だから、もう神様だけは御承知だからといういき方です。もう当時の総代さん方が御本部に何回お願いに行かれたか分からん位でした。けれども、それがかなえられなかったという時代です。ですから、金光様がね、「今は辛い立場にあるけれども、もうしばらく時期を待ってくれ」と、そういう意味ではなかったろうか。叉は、お広間の方へ下りてみえたという事は、「ここを取次者の場であるなら、ここは信者の場です。だから信者のまま、まあ辛抱しておってくれというような、もっともっと深い意味もあった事でしょう。
 とにかく、それでも頭を下げて金光様が私に願っておられる、その願うておられる願いに応えてたつ為には、力を受けなければならん。ですから、今日の御理解から云うと、今こそ教会でもなければ教師でもない、けれども今こそ信者時代に本気で力を受けておってくれよと、私は金光様が私に願うておられたと思うのです。そこで、その願いに応えさして頂こうという信心修行、今から思うてみて、その時の為に力を受けとこうというような事もございませんでしたけれども、今から考えますと、その当時とらせて頂いておった、私の信心の進め方いき方は間違いではないなという事がです、自然との対決に於いてです、私が一生懸命対決しながら、それに打ち勝っていく力を私が養うておったという事であります。ですから、まずお互いの様々な目の前にある問題、叉、難儀に取り組んでそれに打ち勝たして頂く力を受けて、そしてその力を持ってです、そんなら神様の願いに応えて立たしてもらえる信心、神の願いに応えて立つ信心、神のいうなら手足にもならして頂く信心、そこにです、私は倍力の徳が約束されるんだと思うのです。
 結論してです、本当に私共が信心してお徳といういう事が分かり、お徳を頂く事が有り難いという信心にならなければ、いうたら信心の本当の値打ちはありません。ですから、そういうおかげを頂く為に私共はささやかながらでも自分の力というものをひつと本気で、自分の力量というものがね、自分で分かるだけの信心。
 例えば、そこに金光様のお書きになったそれが骨董屋でお粗末になっていきよる。勿体ない事だと思いましてもです、それが例えばそんなら一千万もするものであったり、二千万もするものであったらです、現在の私にはとても手は出せませんけれども・・・・・
 私共が今度の旅行の為持って行っておるお金で・・・それ以上の事では出来ませんにしても、私が頂いておる力、その力をもってお役に立たせてもらう、力を持って神様の心に添わして頂く。そこんところがですねえ、どんなに限りない力を持ってござる神様でもです、神様だけではどうにもお出来にならない事がたくさんあるのです。そこんところを私共は「あいよかけよ」と教えられております。
 氏子の事は神が願うて下さり、神様の事は叉私共が願う、願い合い頼み合い。ですから、神様がお出来にならないところは私共がさしてもらう。その例えば神様のお喜びがです、こちらに倍力の徳になってかえってくる。これは教祖様がまだ神様からいろいろとお指図を受けられ、様々な修行なさっておられる時に、「今日は親戚の誰それが亡くなった。隣近所の親戚をさそうておくやみに行け」とおっしゃる。それで教祖様はびっくりされてね、近所の親戚の人達を誘うて行きますとです、当のご本人が出てみえられた。もうそれこそ穴でもあれば入りたいと思いなさいましたでしょうし、叉一緒に誘うて行っておられる親戚に対しても本当に恥ずかしい思いをなさった事であろう。その帰り道に神様は教祖様にどう云っておられるかと云うとね、「もどしの風は十層倍、もどしの風は十層倍と云うて帰れ」と云うておられます。だから倍力位の事じゃないですねえ。神様がある場合試される。
 私共もいろんな事がありました。まだ福岡の修行中でした。「この家には病人がおるから助けてやれ」と神様がおっしゃる。神様から頂くから仕方がないから入らん訳にはいきません。そしたら上がり口の所に人が休んでおられます。それで、まあ全然見も知らん所へ行ってです、夏の事でしたが、寝ておられましたから入りましたら、そしたら「わたしゃ、どうもなかですよ」と。もう、うさんくさいとが入って来たもんじゃからびっくりしちゃるとです。そんな事がありました。「ああ、そうでしたか、あのすみませんが水を一杯下さい」と水にごまかして本当にほうほうの態で出てきた事がありますが、私共はそういう時にもちっと度胸を作っておきゃ・・・・・只、神様が仰せられたからそうしたんだという事であったらそういう時がやはり「もどしの風は十層倍」というような事ではなかろうかと思います。神様は嘘ばっかりおっしゃってというような事ではないのです。だから私共生活させて頂く上にもお取次頂いて、お願いをさせて頂いても、「神様のおっしゃる通りにしましたけれども、こういう事になりました」なんていうのではなくてです、そういう時こそ神様のお試しを受けておる時といったような頂き方をしてです、叉倍力の徳を、もどしの風は十層倍というようなおかげを頂かせてもらう、私はチャンスだと思います。
 様々にございましょう、神様の特別の働きを受ける、徳を受けるチャンスはありましょうけれども、今日はその事について私が申しました事は、神様の願いに応えて立つという事を申しました。そこで神様に願うて下さってもこちらに力がないとそれを願いに応えて立つ事は出来ませんから、為に私共は日々、信心の稽古をさせてもらう、とりわけ力を受ける為に成り行きを大事にさせてもらい、成り行きとの対決に於いてです、その事に打ち勝たせて頂く力を受けて、いよいよ貯えに貯えた力をもって神様の願いに応えさせてもらえれる信心を頂きたい。そこからの倍力の徳を受けさせて頂くおかげを頂かねばならんと思うですね。 どうぞ。